| 日本への旅行について書かれているガイドブックなら、お薦めの見所には必ず姫路市を挙げているでしょう。その観光の目玉はただ一つ――1580年以来ずっとこの街を見下ろしてきた天下の名城‘白鷺城’です。また、私が「今回の旅程には姫路が入っているのよ。」と口にする度に、「お城は絶対見ないとね。」といつも同じ答えが返ってきます。
神戸近郊で育った通訳のアリスでさえ、姫路へ向かう新幹線の車中、「Shirasagi」というのは「『白い鷺』という意味なのよ。」と、とてもわくわくした様子で話してくれるのです。前回訪れた時の情景を思いおこして、「列車が駅構内に入ると、ちょうど右手正面の丘に白く美しいお城の姿が現れたの。まるで列車がお城へとつづく門の前で停まったかのようだったのよ。」と……
とはいえ、アリスは日本からしばらく離れて暮らしていたのですから、現在の姫路は知りません。姫路駅の外は、道行く人の多い都会のビル街で、16世紀の絵巻物に描かれているような幽玄な世界はどこにもありません。一方、駅からちょっと離れると、もう郊外となるのですが、そこには太い高圧電線で繋がれた赤と白模様の鉄塔だけが、殺伐と立ち並んでいるのです。歩行者が往来する町並みのイメージは気配ほどしかありません。ブルドーザーが敷地の端から大量のやせた土を寄せていって、もう一方の端に山のように盛り上げています。その隣のコンクリートで固めた地所を通り過ぎると、突然、公園が姿を現します。その公園は、4月だというのに深い緑の木々が暗く鬱蒼と茂っていて、いかにも森に偽せたまやかし物といった感じです。
私たちを乗せた車は駅から次第に離れていきますが、車の中から街を振り返ってみても、白鷺城はどこにも見えません。
バンの助手席に座っている中安伸明さんが、いささかためらいがちですが、自分が持っている世界を是非見せたいという面持ちで後部座席の私たちの方を向きました。丸みをおびた頬はいつも赤らみ、すこしばかりぎこちない笑顔の彼は、度量が広くゆったりとした印象です。黒い髪がやや薄くなりつつありますが、この男性から感じるのは、これから先の人生に燃えるものをたくさんもっている初々しい新成人のような汚れなき情熱です。そんな彼の姿は私には意外でした――何故ならいろんな点で彼は、私が出会ったどの農家より劣悪な環境に置かれているのですから。
「10年前は、この辺りは全部畑だったんですよ。」と中安さんは説明します。私たちのバンは、ガランとしてひと気のない家電ショップ、窓のない工場、どことなくクローン植物さえ連想させるほどに、同じような木が混み合って鬱蒼と茂り、深緑を通り越して暗く沈んだような色の公園を次々に通り過ぎて行きます。生気を感じさせないこの都市の中にある140アールの土地は、実はかつて中安さんの圃場でした。ここは、中安さん一家の圃場になるはるか昔の280年前――江戸中期に農地として干拓された古い歴史をもつところです。
この地が圃場として干拓される前は砂浜でした。話は18世紀前半にまでさかのぼります。当時は江戸幕府が全国を統治し、武士階級が藩を支配する江戸時代で、幕府および藩の主な財源は農民の納める年貢米でした。それゆえに農地が増えるほど、年貢米も増えるということになりますが、この狭い火山列島で耕作面積を増やすには、山を切り開くか、平地を水田として利用できるように干拓するかのいずれかしかありません。そこで8代将軍徳川吉宗は享保の改革の一環として日本各地で新田開発をせよと各藩に布告しました。瀬戸内海沿岸の各地では遠浅の地形を生かして干拓する方法が取られ、この海岸の砂浜に土を一尺(30センチメートル)被せて、その干拓地を水田として使用することになったのです。
この手のやり方は近年になって再浮上してきましたが、今回の場合は、地表を覆うのは土ではなくコンクリートであり、目的は工業化の推進です。工業化の波にのまれずに踏みとどまっている日本の農村には、地方自治体が、背の高い柱に取り付けた雑音の多いスピーカーから短い音楽を流して、正午と夕方5時の時刻のお知らせをしているところがありますが、そのような光景は私が訪問した本州のあちこちで見受けられます。そういった農村の道端に立っていると、その音楽を合図に、まるでグリム童話に登場するハーメルンの笛吹き男に鼠が誘い出されるかのように、あちこちの果樹園や畑から農家の人たちが次々に出てくるのを目にします。それに対して、ここ姫路の工業化地域では、正午になると密集して建ち並んだ建物の中にいる人たちにも聞こえるほど、けたたましくサイレンの音が鳴り響きますが、お昼を食べに外に出てくる人は誰もいません。
ここには160アールの面積に、同じような形に区画整理された土地が並んでいますが、それらは近所の人たちが所有している土地です。中安さんが主に農業を営んでいる30アールの畑は、その160アールの土地の真っ直中で縮こまっているような印象を受けます。箱のような灰色の建物は、このちっぽけな野菜畑を、まるで三方向から飲み込むかのようにそびえ立っています。中安さんの置かれている立場を考えると、圃場に立ってその灰色の建物に石を投げつけてもよさそうなものです。なのに、彼は石をなげつけるのではなく、南の浜の方を向いて――そこにある工場ではなく、まるで工場の壁を透かして見えるエックス線のような透視力でももっているかのように瀬戸内海の方を指さして話します。「私が子どもの頃はまだ、遠浅であの工場の向こう側あたりまで海岸線が迫っていて、細長い砂浜が沖合いにまで延びていました。今では昔の海岸線の面影はすっかりなくなって、当時海だったところまで工場がぎっしりと建ち並んでいます。」
さて、この工業化の波の真っ直中にある殺伐とした光景を想像してください。でも、中安さんの顔はいつもの穏やかな表情のままにしておいてくださいね。ここは元々彼の家族が農業を営んでいた畑で、彼が20年前に受け継いだのです。そして今、彼はまるでその頃と何一つ変わっていないかのように生活しています。でも現実には真っ直ぐにそびえたつ電柱が暗い池の表面に映っているのです。そんな蓮根池の傍に立った私は、思わず彼に尋ねました。「今にも飲み込まれてしまいそうなこの状況で、あなたはどうやって心を失わないようにしているのですか。」と。私の質問に対して彼はさりげなくこう答えるのです。「あなただってその真っ直中にずっと暮らしていたら、きっと気がつかないと思いますよ。こうなるまでの環境の変化はゆるやかだったように思います。私は、この環境の変化を、日本全土に打ち寄せている開発の一端にすぎないと思ってます。」
彼の偽りのない目を見てもそこで農業を営んでいることは到底信じがたいことです。作物の増産を促すために化学肥料や農薬を投入する慣行農業のやり方であっても、ここで農業を続けていっても成功する可能性は少ないでしょう。もちろん、成功なんかしないでしょう。しかし、そんなやり方で農業をしたとしても、それは、化学物質を周囲にまきちらす工場と同じように、化学肥料や農薬を周囲にまきちらして環境を汚染することに関わるようなものに思えます。しかし、土に余計なものを投入しない方法――秀明自然農法でもって、ここで農業をするためには、どうすれば圃場をできる限り自然に近い状態に戻しうるのでしょうか?
つまり、この工業化地帯の真っ直中、いったいどこで秀明自然農法を始めるというのでしょうか?
中安さんはゆっくりとしたペースで事を進め、3年越しで、土に余計な物を一切投入しない畑に変えました。その当時は彼にとって非常に厳しい状況で、土作りの難しさばかりではなく、中安さんを信じて支援してくれる消費者を見つけることも大変困難で――それは、秀明の仲間内でさえ難しいことだったのです。
6年が経った今でも中安さんのところの土は砂質ですが、彼が管理するハウスは活気に満ち溢れています。イチゴ、ナス、メロン、キュウリの苗はポットにじっと収まりきれず、車道にあふれ出しています。サツマイモは苗床にのびのびと蔓を伸ばして、葉っぱが地面を隙間なく覆い隠しています。
このような希望に溢れる光景は、中安さんが自分にはどんな手段があるのかを知り、活路を見い出したことから生まれたのです。こうした工業化最優先の環境においても大地は生命を宿しているのです。そして、そこから学ばんとする者は誰でも、その生命から、その人が必要とする手段が何なのかを学ぶことができるのです。そして彼はそれをやりとげてきただけなのです。
蓮根池へ目をやると、電柱が文字通りその水面から聳え立ち、電柱の天辺は、青くかすんだ遠くの山々より高く見えます。中安さんの近所の農家は、多量の肥料を必要とする蓮根の生長を促すために肥料を施し、その酸性土壌には石灰をまいて中和します。中安さんはそういった農業資材の使用に見切りをつけ、化学農法以前の先人たちの知恵を頼りにしました。現在、中安さんが蓮根池に入れるものは藁だけです。その藁には、自然堆肥としての役割があります。そして自然堆肥には雑草抑制としての働きがあります。中安さんはさらに畑の変化についても語ります。「私の畑における収穫量は近所の農家と比べると半分、あるいは3分の2かもしれません。でも、その土は石灰を投入しなくても土自身の働きで自ら中和し、場所によってはほぼアルカリ性になった場所もあるのです――それは土壌の酸性化を憂いている日本では聞いたことのない変化なのです。」――と。

条植え作物についても、彼は昔ながらのやり方に倣い、自家採取した種を蒔いて栽培しています。そうすることで、作物は痩せた土壌に対しても最高の適応力を発揮するようになるのです。家の裏には小さな庭があり、中安さんはそこに納屋を設えて、自家採取した種を保管しています。その外見は何の変哲もないものですが、その裏庭に視線を向けると、自家採種で育んできた野菜の見事な出来栄えに目が離せなくなります。自家採種8年目を記録しているカブは、今の時節、次の世代の種を結ぶことになる花をたわわに咲かせていています。スラリと伸びてふわふわした白い人参の花、輝くばかりの黄色い大根の花――通常ではお目にかかれないような花いっぱいの庭からは、この辺り一帯の表土が痩せていて、下に3メートルもの砂の層があるということがうそのように思えます。
先人の知恵を参考にすることは、中安さんの成功にとって不可欠ですが、もし彼が現状にも注意を払っていなければうまくはいかなかったでしょう。中安さんは、地元の都市化を嘆くよりもむしろ、それを利用する方法を見つけたのです。
例えば、彼はこの地域にある‘例の森林まがいの公園’を利用しています。姫路のこの地域の至る所に工場が建設されると、どの工場にも働く人々が押し寄せて来て、彼らのための住宅が続々と建てられました。労働者たちの住宅が建ち並んだことは、似たような工場と住宅の寄せ集めにしか見えない没個性的な産業化地域に第3の活動の場、すなわち郊外居住者たちのための憩いの場(公園)を生み出すきっかけになったのです(つまり、最初にこの地域に建設されたのが工場で、それが第1の活動の場;次に建てられたのが工場に勤務する人たちの住宅でそれが第2の活動の場;そして、3番目に作られたのがこれから説明する公園で第3の活動の場なのです)。1998年、この地域をもっと住みやすい環境にしようと、市の行政は当時残っていた農地の多くを買い上げて公園にしました。中安さんが自然農法への転換に伴う経済的苦境を乗り切れたのは、市の計画事業に140アールの土地を売ったお陰です。
それだけでなく、中安さんは、畑の土壌を豊穣にするために、公園から継続的に恩恵を受け続けています。中安さんの畑の土だけでは、多くの雑草を繁茂させるだけの十分な力はありませんし、ましてや自然堆肥を作るにも不十分です。(彼が枯れ草や落ち葉だけの自然堆肥だけを施用する農業を始めた頃は、川の土手まで行って、そこで倒れた雑草を必死に集めていました)。しかしながら、この街の木々はと言えば、その葉も枝もすべてが区画整理された公園の中に押し込められて、いたずらに濃い緑の葉を鬱蒼と繁茂させているのです。中安さんは、地元のゴミ処理会社と一緒に仕事をしている親類のつてで、この業者と取り決めをし、焼却炉に持っていく軽トラック50台分の刈り取った木の枝葉を、年に2回圃場にもらっています。「今は、公園のおかげで、大変助かっています。」と、中安さんは語ります。
また、経済的にも都市を有効利用しています。都市近郊での栽培は中安さんに消費者への直接販売を可能にしています。そのことで、仲買業者が介入しないだけでなく、こうしたすべての不自然さの真っ直中にありながら、自然に作物を生産することへの恩恵を得ることができるのです。反面、慣行農法で穫れた作物を仲買業者に卸売りしている近所の農家は、次第に自分たちの圃場を宅地開発業者や市当局に売り払うようになってきています。実際のところ、土地への愛着はあっても、仲買業者を介するような慣行農業の市場では、慣行農家が自分の圃場で農業を続けていけるほど十分な利益を得ることができないのです。

そして現実のところ、一軒の農家が自分の土地で農業をし続けることに挫折して土地を売却してしまうと、残りの農家も弱気になってしまうのです。何故かと言うと――中安さんが主に農業を営んでいる圃場は、地所が12列数珠繋ぎに並んでいるところの一番端にあります。地所と地所との間は細長いコンクリートの板が地中深く埋め込まれてしっかりと区切られているのですが、コンクリートの板なんぞ、土地を購入しようという業者から見たら土地を分けているというよりも、土地と土地がつながっていることを立証しているようなものなのです。つまり、こういうことです。ある農家が1反の細長い地所を1つ、非農家に売るとします。すると、新しい所有者は、購入した地所を利用するために、隣接する土地も次々に購入する必要があります。現状では、土地の売却を迫る圧力が一層強くなってくるだろうという私の考えを伝えると、中安さんは持ち味の楽天的な面持ちでこう答えるのです。「そうですね。でも、幸運なことに私の畑は一番端だから、誰かが他の11枚全部を買い占めたとしても、私はまだここで農業を続けることができるんです。」
中安さんは、駅へ向かう帰りの車中で、世間の板ばさみにあって苦しいのです、と胸中を明かします――由緒ある土地に愛着を感じながらも、もっと農業に適した土地へ移ることを夢見ている、そうなれば、現在もこれからも今よりもっとすばらしい生活を期待できるでしょうから――と。もちろん、すぐに中安さんは明るさを取り戻し、「でもどこで農業をするかは、結局のところ問題ではないのです。秀明自然農法の哲学、方法、真髄を実行し、伝えていくのが私の務めであり、それはどこにいてもできることですから。」と語ります。
駅への帰路、そそり立つ電柱に地面を貫かれた可哀想な蓮根池の光景が、脳裏に浮かんできます。すると、昨晩ホテルで読んだ『仏教聖典』の一節が、私の心に甦ってきたのです(ホテルには、仏教伝道協会出版の『仏教聖典』が部屋に置いてありました)
。その釈迦の教えには、この世で最も清らかな白い蓮の花――極楽浄土の花とされる――は暗くよどんだ水の中でしか咲かない、と説かれていました。
世俗的物事に染まざること
蓮華が水に在るが如し
大地より涌き出でし菩薩は
苦しみの現世に身を投じ
美しき浄土と変えていく
妙法蓮華経従地涌出品第十五
駅に近づいたら、突如、いにしえの白亜の殿堂が――ビルとビルの谷間から――その姿を現すのを私は見ました。出来過ぎた話に聞こえるかもしれませんね。でも本当のことなのです。あなたたち、姫路に住むあなたたちは、灰色に褪せた街の空虚な雰囲気が漂う通りからでも、依然として凛とそびえる白鷺城の姿を見ることができるのですね。
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