| 樽海靖夫さんは、折あるごとに、お決まりのソファーによく腰を下ろします。見た目には何の変哲もない一家財ですが、右側のシートにできたへこみは、そのソファーの座り心地が満点だということの証となるものです。ソファーは実際には部屋の中というより、家の前の方にある細長い縁側に置かれています。
この広々した家には他にも座る場所が沢山あり、大抵の人なら、そのソファーよりも、思わず腰掛けたくなる揺り椅子、ガーデンベンチ、ブルーのiMacコンピュータの前に敷かれた座布団の方を好むでしょう。他にも、畳敷きの和室が2つあり、片方はソファーのある縁側から腕の長さ程も離れていません。その豪華な部屋には、装飾用の弓矢が縦向きに 掛かっており、外から勢いよく流れるせせらぎの音が聞こえてきます。樽海さんのご両親が、天井の垂木に掛かっている肖像写真の中からじっと見守っています。2人とも気品があって飾り気がなく、高い誇りと一徹さが感じられます――母親はコルセットを締めるようにきっちりと黒い着物姿に身を包み、父親は極めて端正なスーツ姿で写っています。
けれども、樽海さんが座る場所に選んでいるのはこのソファーです。樽海さんはそこからの眺め――床から天井まであるガラス戸越しに見える、一面を青と紫に彩られた庭からその先の圃場まで広がる光景――に引き寄せられるのです。今日、樽海さんはさっさと昼食を済ませると、まだ食べ終わっていない人の失礼にならないようじっと待っていましたが、頃を見計らってサッと立ち上り、いつも座るソファーに戻りました。それはあたかもゴムバンドが体にくっ付いていて、それでソファーの方から強引に手繰り寄せられるのをスローモーションを見ているかのようでした。そういう訳で、樽海さんはやはりこのソファーにいるのです。たくましい体をクッションに深く沈め、まるでフクロウのような丸い目をじっと凝らして、ピンク一色に染まった水田を見つめています。

時に形が変わることはあっても、樽海さんのこうした姿は
56年間変わっていません。樽海さんはこの地で育ち、道を挟んで家の向かい側にある小さな黄色い校舎の学校に通っていました。学校の帰りは、家から800メートル余り離れた丘までわざわざ遠回りして
歩いて戻ってきました。そうすれば、学校から早く戻って両親に畑仕事へと出されることはないからです。それでも畑に出された時は、蜂を捕まえるチャンスを辛抱強く待ち、捕まえたらその体を割いて中の蜂蜜を口に入れたものでした。蜂が好んで集まったのはレンゲの花でした。今日もまた、ソファーからの眺めは、その時と同じように鮮やかなレンゲのピンク色に彩られています。
あれから何十年か経つうちに、レンゲの花は何処にも見られなくなってしまいました。それでもなお、樽海さんの家族は昔からのやり方を踏襲し、レンゲを冬期被覆作物として水田に植え、花期が過ぎて種をつけた頃、そのまま土中に鋤き込み、秋になって再び芽が出るようにしました。樽海さんは、越年草のレンゲがまるで多年草の如く同じ場所に毎年生えてくるようにそのやり方を続けてきました。けれども、戦後の食糧増産対策として、その習慣を改めるように政府は農家に指示しました。列島本土の南端に位置する九州では、農家は、レンゲを被覆作物として用いることを止め、水田の裏作として暖かい冬の季節を「利用」して小麦を栽培するように政府から指導されました。レンゲのピンク色は水田から次第に消えていきました。
その後何年も経ってから、樽海さんは自分の圃場を秀明自然農法に切り換えたのですが、長期にわたって残留している農薬を土壌中から除去するためには、何らかの手立てが必要でした。(多くの秀明農家の人々と同様に樽海さんも、過渡期あるいは有機農法の段階を踏んで、徐々に秀明自然農法に至ったのではなく、きっぱりと慣行農法を止めたのです。)そこで樽海さんは、レンゲには毒素吸収作用あるのではないかと思って、レンゲを植えました。けれども、樽海さんはレンゲにはそれ以上の利点があることをすぐに発見しました。戦後の農家は、レンゲのような農業用としては生産性が全くない被覆作物の栽培を避けることを方針としたのですが、樽海さんは注意深く観察することにより、レンゲにはある種の効果――すなわち、土壌を豊かにし、稲にとって最大のやっかい者である雑草を抑える効果――があることに気づいたのです。その上、レンゲは自ら種を落として自然に生えてくるので、費用はまったくかかりませんでした。
そのように成り行きを期待しつつ待って観察することが、秀明自然農法の手法の真髄といえます。樽海さんの言葉によると、「土に何も入れないのですから、圃場で何が起きているのか、じっくり観察しなければなりません――それが一番の道具になります。そうすることにより、どんな時でも、自然に手に入るものの中から解決策が見つかるのです。」
さて、マメ科のレンゲを用いることは植物を基盤とした解決法でしたが、樽海さんにとって「自然に(ひとりでに、無理なく)」手に入るとは、必ずしも「自然から(天然から)」手に入るということを意味するのではないのです。一例を示します。樽海さんが、秀明自然農法へ切り換えた時、収穫高は落ち、また収入も減りました。それを埋め合わせるために圃場を1.2ヘクタールから12ヘクタールへと広げたのですが、経営を移行できたのは、樽海さんが以前農機メーカーに勤め、配送・取り付けをしていた関係で、かなりの機械類が手元にあったということに他なりません。樽海さんの見方では、これらの機械類も「自然に手に入る道具」に該当するのですが、その「自然に(ひとりでに、無理なく)」とは、必ずしも私たちが通常意味する「自然から(天然から)」ではないのです。
樽海さんは説明を加えます――秀明自然農法では私たちの行いが自然と調和したものであるということが基本です。ところが、私たちは人間自体が自然の一部であるということを、時折忘れがちです――と。「何であれ身近にある道具を利用しながら食べていくのは、全く自然なことです。それを行なっている時に、自然への尊敬の心がありさえすればよいのです。」と樽海さんは語ります。
自然が、私たちに、私たちの歩むべき道を教え、私たちを導いてくれるのです。だから、自然が「止まれ」「そこまで」と言えば、私たちはそれ以上の事は行わないのです、と樽海さんは語ります。
樽海さんの家の窓から外の光景を臨むと、銀色に波打つ小麦の穗が一面に広がっています。その小麦畑を例にしてお話ししましょう。もしこの小麦畑をそっくり水田に切り替える必要があれば、樽海さんはきっぱりと水田にしてしまい元に戻すことはしないでしょう。切り替えたりまた元に戻したりする慣行農家とは違います。こうなると明らかに圃場の特性を変えなければなりませんが、人間の力で意図的に変えるためには二つの要因が不可欠です。一つは圃場を二分するように流れる人工的な用水路があるということ、そしてもう一つは九州という土地柄、つまり、火山灰土壌が肥沃で変化に順応し易く、気候は温暖で幅広い対応性があるということです。前者は人工的な要因、後者は自然環境の要因ですが、いずれも樽海さんにとっては「自然に手に入る道具」なのです。

反対に、仮に樽海さんの圃場が九州よりはるかに北にある北海道に在るとしたら、彼は灌漑用水を引くかもしれません。けれども、圃場の変化は九州よりゆっくりとしたものになるでしょう――実際、私が取材した4月は、北海道ではまだ霜が厳しいかもしれません。北海道で成功するには、圃場の環境をそのまま受け入れ、短い栽培時期を最大限に活用しなければなりません。言わば、いろいろ試している余裕などないのです。南北どちらでも秀明自然農法をうまく軌道に乗せるには、その圃場で栽培が可能な期間の限度を把握することが鍵となります。そこの土地柄、周囲の自然環境を注意深く観察することが、そのことを知る唯一の方法となるのです。
「慣行農家をしていた時には、私は何も考えていませんでした。自分がロボットのようだったと言ってもおかしくありません。けれども、私は今秀明自然農法農家として、作物と心が通じ合っている自分に気づきます。時には作物に話しかけることさえあるんですよ。」と、樽海さんは心の変化を語ります。
そして勿論、樽海さんはソファーに腰掛けていても、トラクターに乗っていてもどこでも観察を続けます。水田や用水路脇では両膝をつき、覗き込むようにして観察します。さて、樽海さんは水を張ってある田んぼの至る所で、ジャンボタニシ(スクミリンゴガイ;学名
Pomacea canaliculata)と呼ばれる巻貝にかなり頻繁に出くわします。この貝は稲が好物で食い荒らすため、ほとんどの地元農家は農薬を散布して殺してしまい、ゆっくり時間をかけて観察するようなことはまずしません。樽海さんも以前は同様にしていましたが、一旦農薬を止めた以上、ジャンボタニシの食害を防ぐ他の方法を見つけ出さなければならなかったのです。
そこで樽海さんが思い出したのは、そのジャンボタニシは稲だけでなく、雑草も食べるということです。さて、このことは誰もが知っているのですが、それについてよくよく考え直してみる人は皆無です。その上、農家は皆2,4-D(2,4−ジクロロフェノキシ酢酸:1940年代の前半にアメリカで開発された選択性除草剤で、広葉雑草を枯らすが、イネ科の作物には害作用が少ない)を散布するので、稲以外の雑草は跡形も無くなります。ところが樽海さんは雑草があるとどうなるのか、水田を観察したのです。
来る日も来る日も膝まで泥だらけになりながら、とうとう樽海さんは手がかりを見つけました――それはジャンボタニシの習性です。ジャンボタニシの体が水面から出ている時は、稲を食べないということに気付いたのです。何故だろうか、と彼はさらに観察を続けました。そして、ジャンボタニシの体が水の上に出ているのは、水位が低い時だと気付きました。さらに、ジャンボタニシが稲や草を食べる時は、必ず柔らかい先端の部分を水中に沈めてから食べることにも気づいたのです。つまり、ジャンボタニシには柔らかい茎の先端にまでよじ登って、それを水中に沈めるのに十分な水深が必要なのです。まだ若くて茎が柔らかい雑草が水面から頭をだしていると、ジャンボタニシは茎をよじ登り、水中へ浸かるように押し倒してからご馳走にあずかります。樽海さんが田んぼの水位を上げると、ジャンボタニシは水面の上昇に合わせて浮力を利用して水面近くまで移動し、さらに若い稲の苗の柔らかいところにまでよじ登り、苗を水中に押し倒して、ムシャムシャ食べることができました。しかし、水位を下げると、ジャンボタニシはたとえ稲の茎をよじ登っても屈強な茎を押し曲げて水中に沈めることができず、稲はジャンボタニシの食害を受けることなく成長しました。一方、雑草の方は、たとえ水位が低い場合でも、その発芽直後の柔らかさ、草丈の短さゆえに、発芽すると同時にいとも簡単にジャンボタニシに押し倒され、食べられてしまいました。

(この低水位に保つという方法は、ジャンボタニシによる稲の食害を防ぐのために、農薬に代わって今日最もよく使用される方法です。とは言っても、樽海さんの観察に基づく手法が引き金となってその革新的技術が日本に広まったというのではないのです。この事実は秀明自然農法はあくまで科学的研究の枠外に存在している事実をまさに浮き彫りにしていると言えます。たとえ秀明自然農法農家による観察に基づく結果と科学者の研究結果が同じであったとしても、結論に至る過程と目的は本質的に異なっており、ものごとを捉える観点も非常にかけ離れていて、説明そのものも全く違っているのです。)
ジャンボタニシの話に描かれる樽海さんの姿は、イエスの言葉を文字通り信じ、一切の物を捨ていつも裸足で、大地の中で万物と共に生きたと伝えられるアッシジの聖フランチェスコを彷彿とさせるものですが、樽海さんの場合、話はもう少し込み入っています。水位を下げるという技術が効果を発揮するのは、圃場が完全に平らな場合だけです。なぜなら、盛り上がっている所は水位が低くなり過ぎて干上がってしまい、底が低くて水にドップリ浸かる所は、ジャンボタニシが稲によじ登って稲を押し倒して食べてしまうからです。こういうわけで、樽海さんは地ならしの機械を頼りにし、自然の力(ジャンボタニシの力)によって除草をはかどらせるのです。(この2つの要素を先ほどの例えと同じように説明するなら、地ならしの機械は人工のものではあるが、樽海さんにとっては「自然に手に入る道具」であり、ジャンボタニシは、まさに圃場に生息する「自然に手に入る道具」なのです。)
さらに、ジャンボタニシ自体、「元から樽海さんの田圃にいた」わけではなく、少なくとも元から日本にいた土着の巻貝でもないのも確かなことです。このジャンボタニシは実は1980年代に東南アジアから食材にすることを見込んで輸入されたものなのです。日本では一般に小さな貝を味噌汁の具にして食べるので、業者はもっと大きい具であれば尚いいだろうと考えたのでした。ジャンボタニシは海外では広く食用にされています。ところが業者の意に反し、日本人は、その舌触りや歯ごたえを嫌いました。地元の養殖所は閉鎖され、ほとんど全てが川に捨て去られた結果、ジャンボタニシはそこで繁殖することとなりました。
機械類を十分に所有する生産者なら、樽海さんを見習ってジャンボタニシの食害をうまく回避し、厄介な雑草の繁殖を抑えることができるかもしれませんが、除草がうまくいくのは、ふんだんにジャンボタニシのいる生産者に限られています――しかも、ジャンボタニシは温暖な気候の九州周辺にしか生息していないのです。この技術を他の農家がそのまま真似できないのと同様、他の多くの秀明自然農法の方法もそのまま真似ることは無理で、ほとんどの農家にとって見習うことができることは、ひたすら自然を観察し、自然に耳を傾けることだけです。
樽海さんは次のように語ります。「自然が、問題に対処するための解決策をもたらしてくれるのです。私たち人間が解決策を作り出すのではないのです。以前はこう思っていました――ここは私の土地だから、私の思い通りにして、私の作りたいように、作物を育てるんだ――と。けれども、秀明自然農法では、その気持ちを捨て去ることが大切なのです。管理したくなる心をぐっと堪えることが肝心で、私たち人間にできることはただひたすら自然を観察することだけです。」
樽海さんはお気に入りのソファーにいつものように腰掛けて、秀明自然農法のあり方を子育てに例えながら説明します。慣行農法のやり方は、大切な息子を椅子へ座らせ、食べ物を口元まで運んでやり、成人に達するまでずっとスプーンで食べさせるようなものです。そんな育て方では、子供は一人で放り出されたら、死んでしまいます。秀明自然農法でも、子供に食べ物を与えることを目指すのですが、子供に自ら食べ物を見つけるにまかせるのです。これは粗っぽい例えですが、まさしくその通りのことが樽海さんの圃場で起こっているのです。樽海さんは種を自分の圃場で採取しており、その種から育った植物が世代を重ねる毎に、自分が播かれ、植えられている土地やジャンボタニシや種々の害虫などに対する適応力を増してくることを見いだしています。自家採種を重ねるごとに、稲の茎は一層強くなり、稲を狙ってくるジャンボタニシにもさらに抵抗力をつけていきます。稲は害虫の中でも最も手強いとされるトビイロウンカにさえ、自力で対処し始めたのです。
農家の間で通称ウンカと呼ばれているトビイロウンカはウンカ科の稲の害虫の中でも最も甚大な被害を稲に与えます。ウンカは稲の根元に近い茎の部分を食べ、穴を開けて、そこに卵を産みつけます。当然ながら、農家は農薬を散布してウンカを殺します。ウンカの被害の恐れがある時は、有機農家でさえニームオイルという植物油(インドセンダンの樹の果実を搾って採取した植物油で、これを作物に塗ると虫が食欲をなくす効果がある)を使います。ウンカが発生しても樽海さんは作物が台無しになっていくのを、ただ見ているしかなかったのですが、最近になって樽海さんはある変化に気付きました。ウンカの卵を葉で包んでしまう事を樽海さんの稲は覚えたのです。卵の塊をうまく繭のように包み込んでしまえば、ウンカは孵化できなくなります。
そういう話をするとなると、樽海さんはどこまでも誇らしげです。今朝早く、樽海さんは田んぼの側に立ち、少年の頃に戻ったようにぼんやりとした面持ちでレンゲの花を摘み取って茎を編んでいました。「両親にもうこれを見せられないのが、とても残念です。」とつぶやくと、ソファーで時たま顔に出る切なく昔を懐かしむ表情になりました。

さて、一日が無事に終わると、上から両親の目に見守られながら、樽海さんはお決まりのソファーに戻っています。最も満喫できるのは、この時間なのです。樽海さんは、西向きのソファーからガラス戸越しの絶好の光景に魅了されるのです。窓の向こうには日没の太陽が映え、沿岸の切り立つ山並みの向こうに雲間を縫って沈んでいきます。日が暮れるにつれ、景色の細部はおぼろになり、それと共に小麦の動きも和らいで、音を立てて動くタニシはその姿を潜め、稲は暗い影の中にその姿を徐々に消していきます。
それでもなお樽海さんはじっと座ったまま、観察を続けています。暗闇が押し迫る時でさえ、まだ見るべきものがあるのです。
改めて思いました――樽海さんは物をじっと見ることがただ好きなだけなのかもしれない――と。
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