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新たな変革の時期が、第2次大戦後に訪れました。戦時中、農業生産は半減し、人々は食糧不足から飢えに晒されていたので、戦後の緊急課題として田畑の復活を支援することが取り上げられました。つまり、農家の生産する作物は、飢えている国民の空腹を満たすだけでなく、GNP(国民総生産)を押し上げるエネルギーになるだろうと考えられたのです。
気の進まない政府指導者たちは、当時広く行われていた地主・小作制度の改革に乗り出しはしましたが、占領軍は政府の改革に不満を抱いていました。そこで1946年、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は改革法案を制定し、地主は自分で耕作できない農地、つまり3ヘクタール(約3町)を超えるものはすべて小作人に売却することを強制したのです。
あらゆる社会的な価値に阻まれて、その法律は農家の数や農地面積の増加には何
の効果も発揮せず、依然として国中が飢えていました。政府は新規就農への励み となるよう土地の開拓とその売却を試み、各種奨励金が投入されました。けれど
も、農家は先祖代々受け継いできた土地を敬愛していたため売却は進まず、また 新たな開墾は北海道のような遠方で始まったので、新しい入植者には魅力に欠け
ました。政府は家畜を利用する有畜農業を奨励しましたが、田畑として土地を敬 愛する農家は、飼料作物の栽培や牧草地としてそれを利用しようとはしませんで
した。政府は米価を固定しましたが、食糧は慢性的に不足していたので、農家は 背を向け、穫れた作物を高値で売れるヤミ市に流したのです。
本当の意味で農家の生産意欲を刺激したのは、土地を所有しているという新しい感覚で、それは地主制度の終焉に伴ってもたらされたのです。自分で物事を決定できるようになったからには、小作賃金をはるかに上回る収入を稼ぐことも可能となったのです。
しかし大地主は土地を休ませたり、土を豊かにするために被覆作物を栽培したりするなど、将来へ備えるだけの十分な土地と資金を有していたのに対して、新しく自作農となった人びとは、利用できる土地をギリギリまで耕作していました。
ニューファームの読者なら、こうしたやり方の危険性にお気づきのことと思います。さらにこれが農薬導入にとってもってこいのタイミングになったことにもお気づきでしょう。化学肥料が被覆作物に取って代わり、土地を休ませることなく毎年収穫ができるようになりました。除草剤は時間のかかる除草作業の手間を省き、殺虫剤は化学肥料によって乱された環境の中にはびこる虫の面倒を見ました。このようにして、もともと農耕に利用出来る土壌が極めて限られた日本において、急速な土地の枯渇が始まったのです。この異常な状態に対しては、今漸く事態の修復が始まったにすぎません。
1950年— 現在
戦後、日本は、閉ざされた扉の内側で質素な生活を重んじながらも、ひたすら世界の市場に参入するこの時代においては、質素な生活は他のものに置き換わってしまうことを知るに至ったのです。国際社会の一員となることによって、かつては自給していたものを輸入することが可能になり、世界のものすべてに対する購買意欲を持つようになりました。
1951年、経済にも農業にもまだ戦後の傷跡が残っている状態で、日本は日米安全保障条約に調印しました。国民が最も反対したのは、日本の自己防衛に取って代わると考えられる在日米軍基地の無期限駐留でしたが、その条約は農業においても重大な意味を持っていました。つまり、米国が安全を保障するかわりに日本は作物の増産政策を中止し、その埋め合わせとして米国中西部から農産物を輸入することに同意、それと引き換えに今度は日本が自国の製品を購入してくれる米国という信頼性の高い市場を提供してもらうことになったのです。
1985年まで、小麦と家畜飼料に関しては殆ど米国に依存しているにも関わらず、日本は米と農産物の大部分を自給自足することができました。しかし、1993年にGATT(関税および貿易に関する一般協定)のウルグアイラウンド農業協定に調印した後は、安価な土地がふんだんにある世界の国々から身を守る最後の防御策を失ってしまいました。日本は世界の貿易活動に直面して、国内穀物生産に補助金を与えたり自国の関税を守ったりするという複雑で巧妙な世界の正式な仲間入りをしたのですが、それらはすべて輸入食糧の蔓延から農家を救うために講じられたことに他なりません。
その間、多くの先進諸国同様、地方から都市への人口の移動が日本を襲いました。米国では農地を遠くへと押しやることによって、農家は都市化の波に対応しましたが、日本では土地が限られているため、農家は去るか残るかの選択を迫られました。そして農業は大きな損害を被り、完全に姿を消してしまうか、まったくの辺境地へ移動するか、あるいはまだ建築の始まらない土地を満たすぐらいのものになったのです。

こういった美学に夢中になるため、農薬を求めてしまうだけでなく、
怠慢からその使用を許してしまうのです
都会の景色の中にも、まだ農業との深い結びつきがはっきりと認められ、4月にはみずみずしいエンドウの蔓のはびこる菜園が其処此処に見られるし、大阪市内ではひょいと人目につかない田んぼに出くわしたりします。さらに、機械化によって副業的に農業を行える人びとが増え、今では毎年5月の大型連休になると、京都付近の田んぼは休暇を使って田植えをする会社の秘書や工場で働く人たちで賑わうのです。
しかし、食物を育てるということが、ますます人々の生活からかけ離れていきつつあるというのが現実です。世代が下るにつれ、自分たちが口にするものの素性に疎くなっています。このこともやはり、多くの先進国で共通に見られることなのが、それはとりわけ日本独自の料理文化に重大な影響をもたらしました。自然の恵みをたたえる思いから始まったことが抽象化され、時にそれを崇拝するまでになったのです。
今日では、食べ物の美しさに対する評価は、今まで人がそれに対して持っていた崇敬の念からほとんどかけ離れてしまっています。見た目の完璧さが新たに追求されるようになったのです。1万円もする上品なメロンは、発泡スチロールのネットに包まれ、鍵のかかった店のショーウインドウに柔らかな照明に照らされて、まるで宝石であるかのように陳列されています。これはスーパーの一つ一つの果物についても同じです。どれもきれいに磨かれ、みごと斜めに積んであります。今はお米でさえ、見た目で値段が決まる場合があります。もちろんこういった美しさを夢中になって追いかけるため、殺虫剤を必要とし、怠慢からもそれを使用してしまうのです。食べ物の見た目の美しさが最優先となれば、栽培だけでは終わりとならず、むしろそれは一つの手段となってしまいます。
オーガニック農法
そういう訳で、農家はいろいろと農薬を田畑に注ぎます。文字通り注ぐのです。日本の農地面積は世界の0.3%ですが、世界の農薬使用量の12%、総計で米国の6倍の量を使用していることになります。日本ではたいていの農場は規模が小さく、農場所有者自らが農作業に携わって、4反当たり平均32キログラムの農薬を散布しています。それ故、恐るべき率の癌や農薬に起因する病気で亡くなっているのは、農家その人に他ならないのです。明るい面に目を向ければ、オーガニック農法にとっては機の熟した時期にあるということです。
実際、無農薬・無化学肥料栽培という思想は、農薬使用が盛んになる以前に芽生え、岡田茂吉や福岡正信といった先駆者は1930年代から40年代にかけて、独自の農法を開発していました。しかし米国内と同様に、1970年代までオーガニック食品は製品化されませんでした。1940年代以降に日本がとった針路は、米国に於けるのとはまったく逆で、その発展にとって障碍となる結果をもたらすものだったのです。
カリフォルニアで「ヒッピー」と称された人びとは、世の中の流れからはかなり離れたところでオーガニック運動を始めていたので、誰もそのことに気づきさえしませんでしたが、日本ではオーガニック食品は人気のある、主力商品として登場しました。ヒッピー達のやり方は、当時一種の災いの元のように思われましたが、その農家の成長はゆっくりとしたものだったので、オーガニック農家としての使命を明確にすることができたのです。彼らのオーガニック食品は、その運動自体がもっているパワーを上回ることは決してありませんでした。しかし、日本では「オーガニック」という呼称は、はっきりした農法である前に一種のブランドになってしまいました。「ナチュラルライフ」というどこまでも曖昧なうたい文句のパッケージに心をくすぐられた消費者は、特定の農法というよりはむしろ健康という抽象的なイメージを買ったのです。

「ナチュラルライフ」というどこまでも曖昧なうたい文句のパッケージに心をくすぐられた消費者は、特定の農法というよりはむしろ健康という抽象的なイメージを買ったのです。
オーガニック食品は人気を博し、利益を生み、自然と影響力をもちはじめましたが、それを握っていたのは流通業者、加工業者、販売業者であって、その理念について深く考え具体的な形にしてきた農家の人びとではありませんでした。案の定、日本の研究者は強い側に、つまり是が非でも「オーガニック」商品を増やしたいと思っている勢力になびき、ほどなくしてオーガニック農業の定義は著しく曲げられてしまいました。オーガニック農業の成果を示す報告資料は米国やその他の国から届いていましたが、彼ら研究者が歪曲して伝えたのです。つまり、たとえば乾燥したカリフォルニアでは農薬や化学肥料を使わず農業をすることは可能かもしれないが、日本の湿潤な気候の下ではオーガニック農法であっても低レベルの農薬や肥料が必要である、という具合です。
オーガニックでない農家は、オーガニックの認定ラベルを獲得する際に農薬や化学肥料の使用をやめる必要はないということがわかったので、彼らも「オーガニック」農法に移行しました。それに対して純粋論を唱える人びとが、この農法は定義通り無農薬・無化学肥料であるべきだという論争を巻きおこした時、仲間の農家を含め皆がその主張を否定したのです。
救いは奇妙な終末の装いをまとってやって来ました。1995年にサリン事件が起こり、続く1997年には京都議定書の背景にある現実が明らかになり、それから1999年には東海村ウラン工場の事故が起こったのです。国内最大の消費者の生活圏である東京では、化学物質関連の局地災害の現実が間近に迫り、そしてにわかに環境問題が国中の重大な関心事になりました。高い関心を持っていた消費者は、それまでスーパーでオーガニック農産物を20年も買い続けていたのですが、その事件を通してますます農薬の危険性に気づいたのです。
現在、日本には有機認証に対して国内認定基準がありますが、その制度は過去の欠陥を引きずったままです。20年前に始まったオーガニック産業の生き残りたちは、今「減農薬」食品を推進しています。多くの消費者は、自分たちが口にする食べ物が殺虫剤をほんの少し減らして作られていると知っただけで十分安全だと感じます。認定されたオーガニック食品を実際に買っている人でさえ、それが清らかなものであるという確証を得ることはできないのです。なぜなら国の認定基準は抜け穴だらけで、殺虫剤の使用や、遺伝子組み換え作物への移行や、食物への薬剤混入を許しているのです。
辿ってきた道は異なり、正反対でさえあったかもしれませんが、今では日本のオーガニック運動の最前線は米国におけるそれと似ています。農家は大きな認定機関に頼って自分たちの農業に認定をもらうのでなく、農家と消費者との個人的なふれ合いを通してお互いの信頼関係を築いています。彼らはCSA(CSA=Community
Supported Agriculture 地域支援農業:地域の人々が一体となって農家を支援する活動)という形態を選択し、その多くは有機認証さえも取得していません。彼らにそれは必要ないのです。長年曖昧にごまかされてきた消費者は、「握手」という名の表示が一番信頼できることに気づきはじめたのです。
日本のオーガニック農場へ行って見て下さい。きっと米国のそれとよく似ていることでしょう。おそらく米国の農地より狭いでしょうし、そしてもっと整然としているでしょうが、彼らは米国に倣ったやり方で被覆作物や堆肥を使用し、できるだけ食物の見た目、味、手触りが良くなるように努力しています。
秀明自然農法を「オーガニック」と呼ぶと即座に訂正されてしまうでしょう。秀明自然農法を行う農家にとってそれは、自分の農場を慣行農法だと呼ばれるのと同じくらい正確でないことなのです。作物を機械的に栽培せず、殺虫剤や化学肥料を使用しないで農場全体の環境を再生するという点において、秀明自然農法とオーガニックとは似ているように見られるかもしれませんが、その動機や手法はまったく異なるものなのです。
序論パート3は
秀明自然農法の序論はパート3で完結します。パート3では、20世紀に秀明自然農法がどのように萌芽したのか、その壮大な目標は、そして秀明自然農法ネットワークのメンバーは、それぞれの圃場でその目標をいかに成し遂げようとしているのか、お届けします。
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