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オハイオ州、コロンバス、レーン街
自分たちの最初の「農園」で作業をする若かりし日のメラニーとジョージ・デボールト夫妻 |
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2003年1月17日 私たちの初めての農園――それは木造家屋の修理から始まった:
私たちの「初めての農園」-- 総面積4.5アール--は、1973年5月に14,000ドルで手に入れました。その値段は、ジョージが二階建ての木造家屋と車一台を収容できるガレージの塗装を請け合った時、オーナーが1,000ドル値引きしてくれたものです。それらは少なくとも30年間、一度もペンキの塗り替えをしていなかったのです。
その作業を進めるには手で塗装を削り落とす必要がありました。12メートルのアルミ製繰り出しはしごの一番上からむき出しの木材の中に落ちた
こともしばしばあり、136リットルのペンキを使い、翌年のまる一夏を要しましたが、21歳のジョージはついにその仕事をやり遂げました。人々はそれを「労働提供出資(公営住宅や荒廃建物の改装・改築に労力を提供して、家賃などを低くしてもらうこと)」と呼んでいます。そして近隣の人々にたくさんの話題を提供しました。
その農園は18.9×18.6メートルの広さで、オハイオスタジアムから1.6キロメートル東のオハイオ州コロンバス東レーン街267番地の市街地の一画にありました。
私たちは家とガレージの間の細長い草地を手で掘り起こし、窓台で種から育てたスイートコーン、トマト、胡椒を植え、隙間をブロッコリーとハツカダイコンで埋め尽くしました。そして、私たちは「頭がいかれている」と近所の人たちの知るところとなりました。
たいした収穫はなかったのですが、それでもよかったのです。月々の家賃はたった93.35ドル。さらに、農作業を続けていけるようにそれぞれが別に仕事を持っていました。
私たちは『コロンバスディスパッチ新聞』の記者として働いていました。ジョージの仕事は州警察本部の報道記者室で夜間勤務警官の取材をすることでした。彼は日曜日から木曜日の午後6時から午前2時まで勤務し、4年間その仕事をしたのです。10の郡区域のどこかで流血、火事、爆発事件などが起これば、それを記事と写真で世界に報道するのが彼の仕事でした。メラニーは夜間ローカル記事編集と社会福祉の特ダネ記事に携わっていましたが、後に宗教部門の編集主任になりました。
さらに土地を求めて
しかし私たちにはとにかく、指の爪先をもっと土になじませ、自分たちの足で踏みしめる土地がもっと必要だったのです。自分にはその理由はわかりません。ひょっとしたらジョージの家系に伝わる暗く奥に潜む遺伝的性癖のせいかもしれません。彼の曾祖父ハーリー・ハンター・グリックは1930年代に、教職の給料に加えて、花やハーブや野菜を栽培することによってさらに収入を得ていました。それらを栽培しているところは、コロンバス、ウェストサイド、ヒルトップ地区南ウォーレン街62番地の市街地の一画にありました。曾祖父は毎週土曜日になると、コロンバスに古くからあるノースマーケットで自分が栽培したものをすべて売っていたのです。
そういうわけで、私たちはオハイオ州とさらにメーン州でも土地を調べ始めました。メーン州にはジョージの両親の家があり、そこから9.6キロメートル行ったところにヘレンとスコットのニアリング夫妻が営むフォレストファームがあります。そこで休暇を過ごす時には、石垣を作ったり、ブルーベリーを摘み取ったりするかたわら、ヘレンとスコットのところへよく遊びに行ったものです。隣に住むエリオット・コールマンという若いスペイン文学の教授は、一部屋だけの丸太小屋でセルフサービスの露天商を始めようとしていました。
しかし放浪癖のためか、私たちは正反対の方に向かっていきました。1976年、私たちのフロリダ州ポンパノビーチに移って農業をするようになりました。そしてメラニーは『マイアミヘラルド新聞』で、ジョージは『フォートローダーデールニューズ』(『サン-センティネル新聞』の夕刊紙)と『サン-センティネル新聞』で働いていました。彼はそこで南フロリダの、問題を抱えた冬野菜産業に関して何百もの記事を書きました。さて、私たちの家と通りの間にはオレンジの木とマンゴーの木、前庭にはタンジェリンの木が一本ずつ
生えていたのですが、私たちは側庭にグレープフルーツとレモンの木を数本植え、刈り取った芝を砂の中に埋め込んで野菜を植えました。近所の人たちはそれを見て笑いました。
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亜熱帯の暑さ、湿気、年中繁殖する虫のため、野菜はすぐだめになってしまったのです。
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「私たちは本当の農場を探し始めました。多くは求めず、昔ながらの前近代的な石づくりの農小屋、丘の斜面に設えたとても大きなペンシルベニアダッチ様式の納屋、湧き水を湛える池、多分肉類貯蔵小屋、ぐるりと見渡す限り目に入るのは丸々と太った牛が点在する豊かな牧草地、ただそうしたものを私たちは望んでいたのです。」 |
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夢の農園を手に入れる
5年後、キャデラックと分譲マンションという「現実」を手にしていた私たちは、まだよちよち歩きの二人の子供と農業への夢を「荷造り」して、ペンシルベニア州エマウスに引っ越しました。ジョージはロデール出版で雑誌『ニューファーム』の編集主任として働き始め、すぐにメラニーも近くにあるアレンタウンの『モーニングコール新聞』の記者としての仕事を見つけました。
その年の夏、まず最初に園芸用耕耘機を借り、家の横にある庭を耕していきました。私たちの家は郊外の団地にあり、日のよく当たる端の方に、スウィートコーンを長く5列にして植えたのです。近所の人たちはいい顔をしませんでした。
収穫はとてもよく、そこで本当の農場を探し始めました。私たちは多くは求めず、昔ながらの前近代的な石づくりの農小屋、丘の斜面に設えたとても大きなペンシルベニアダッチ様式の納屋と湧き水を湛える池、多分肉類貯蔵小屋、ぐるりと見渡す限り目に入るのは丸々と太った牛があちこちにいる豊かな牧草地、ただそうしたものを望んでいたのです。
次の3年間、私たちの夢の農園を求めて田園地域を捜し回りました。見込みがありそうならいつでも、 二人の子供をステーションワゴンの後部座席に乗せ、
3つの郡をかけめぐり連続で何時間も田舎道をさまよったものです。「獲物」を手にしかけたことは何回かあったのですが、結局最後は期待を打ち破られ、夢は粉砕されるのが常でした。夢に見る農場はまったく存在しなかったのです――少なくとも、私たちの財力の及ぶところには。
そして私たちは、一連の借地人が長年にわたって継続的にトウモロコシや干し草用の牧草を育てていた777アールの土地で手を打ちました。それでさえ偶然のたまものでした。私たちはちょうどよい時にちょうどよい場所にいたのです。
当時地主はその土地を開発のために売ろうとしていました。その場所に15〜20軒の家を建てたがっている建設業者がいたのです。しかしその土地は多少起伏があり、また所々に湿地があって家を造営するには適していませんでした。
また、その数年前から農作は行われていなかったのです。
年老いて健康も衰えていた地主は、心配の種を減らす方を望みました。彼は土地の価格を2万ドル引き下げたのです。その同じ日の朝、ジョージは、私たちが農地を捜そうとかけめぐっているときに新しい「売り出し中」の看板を見つけ、不動産業者に電話で問い合わせました。すぐに家にいたメラニーに電話をかけて、
「15分後にそこで会おう、小切手帳を忘れないで」と言いました。
私たちは西側の干し草畑を歩いて行き、その場で500ドルの預金小切手を書きました。土地は私たちのものとなり、とうとう私たちは本当の農場を持つことになったのです。
私たちは大変喜びました。不動産業業者も喜んでいました。彼は自営不動産業での仕事を始めたばっかりだったのです。彼は自分に満足し切っており、経営者のおじに自分の「偉大な勝利」を逐一事細かに説明したのですが、おじは何の感動も示しませんでした。
「やれやれ、その値段なら私が買っていただろうよ」と彼のおじは言いました。
銀行には1万ドルありました。それはメラニーが新聞社で働いた給料から蓄えていたものだったのです。私たちはその金を頭金として地主に支払い、残りの2万ドルを支払う2年間は地主が土地の財政管理をしました。
農園開設に向けて本格的に作業に取りかかる
翌月、私たちは1946年製フォード2Nトラクター、1.5メートルのブッシュホッグ回転式芝刈機、そして19リットルのガソリン缶を買いました。トラクターは隣家の薪が山積みになっている後側の、新たに手に入れた野原に駐車させ、青いビニールの防水シートをかぶせておきました。今や私たちは「夢の農園」を探し求めて田舎道をさまようのではなく、いよいよ仕事に着手することになったのです。フォードトラクターに乗ったジョージは、野茨やハマベブドウの木やキイチゴの生い茂った土地を、耕作可能な状態に再生する作業に取りかかり、その一方でメラニーはブルーベリーや花を植え小さな庭作りをしました。
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1985年、「キジの丘農園」で
メラニー、ドンとルーシーと共に。左側の背景には、1946年製フォード2Nトラクターが写っています。その後ろには隣家の薪が山積みになっています。 |
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当時私たちはどちらも30代の半ばであり、そろそろ本気になってもいい頃でした。
余分の時間と金は全て、私たちの農園開設のために当てられ始めました――余裕がある時に、少しずつ。そしてその年の秋、最初の大きな進展がありました。私たちはトラクターと道具類を、平床トラックに乗せられて来た3.6×7.2メートルのプレハブ倉庫の中に移動させたのです。
敷地内に私道はなく、そこを通るとき平台型トラックのタイヤが、湿った草の上で滑り続けました。そこでジョージは丸太を縛るのに使うチェーンをトラックに引っかけて、あの古いフォードトラクターで丘の上まで引き上げたのです。「トラクター・ハウス」と私たちが名付けたそれは、身勝手な開発業者達が残して行った探知棒の穴を覆い隠すために、私たちが下地として作っていた砂利道の上を進んで行きました。
私たちの町に住宅建設ブームが起こる以前の1984年、その場所にはキジがたくさん繁殖していました。畑に出かける時はいつも、野原を走り回る雄キジ、雌キジが目に入り、鳴き声が聞こえたものでした。そこで、私たちはその場所を「キジの丘農園」と名付けました。
足を運んで商品作物の市場開拓
その翌年、私たちがまだ町に住んでいた頃、最初の商品作物の鞘(さや)ごと食べるスナップエンドウを、借り物の園芸用耕耘機と手押し式種まき機を使って農園に植えました。農園には水がありませんでした。そこでジョージは、209リットルのドラム缶三つをロープで小型トラックの後部に縛りつけ、町から水を運搬したのです。そうして新たに植えたブルーベリー、果樹、ラズベリーを生かし続けました。ジョージが水を19リットルのバケツで汲み出しているとき、子供のドンとルースは摂氏38度
の暑さの中、氷のように冷たい大量の水の中で遊んで楽しみました。
私たちの作った見事なエンドウのサンプルを手に、私たちは数多くのレストランのドアを叩いたものです。あるカントリークラブのシェフは、私たちの栽培できるものは全部買う、と言いました。「他にどんなものを作っているのかね」と尋ねられたので、「他にどんなものが欲しいですか」と答えて『ジョニーの種のカタログ』を差し出しました。
毎年、少しずつより多くのものを植えて行き、それで得たささやかな収入を私たちの農園に再投資したのです。私たちはジョージの給料で生活し、メラニーが新聞社で得た収入は貯蓄に回していました。1987年5月、土地の支払いが完済するや、それを担保に入れて家を建て、井戸を掘って農場に引っ越しました。
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現在の「キジの丘農園」
温室も最新式の備品も増えていますが、まだ発展途上にあります。ほとんどの農園がそうであるように。 |
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ワード・シンクレアとカス・ピーターソン、また各地 で農業を始めたばかりの他の多くの人々に励まされ教えられつつ、私たちの農場は成長し続けました。それから、ジョージが勤めていたロデールの仕事で、1993年から1994年にかけて、飢えと卑しさと血にまみれたロシアのモスクワへと旅立ちました。そして、私たちはロバート・ロデールの夢であった雑誌『ニューファーム』ロシア版の仕事を遂行しました。
農業への夢を実現させるために
私たち本来の世界に戻ってきてから、メラニーは、フルタイムで農園の仕事に取り組むようになりました。1995年にハウスを建て、1996年には小さなCSAを発足させ、そして農地を永続的に農業のために使用し続けるために土地不動産開発権を売却しました。私たちはお金のほとんどを温室とより最新の設備に投入しました。間もなく作付面積は160アールにまでなり、75世帯の家庭に作物を供給し、地域のレストラン、カントリークラブ、健康食品店、そして農業市場にフィラデルフィアまで繰り出して売りに行ったのです。息子のドンは、その数年前から農作業に加わっていました。
たいていの農園と同じのように、「キジの丘農園」はまだまだ発展の途上にあります。私たちは、この農園が常に私たちや来るべき世代の人たちが、農業を営む仲間からより多くを学び、そして絶え間なく変化していく世界に適応していくものだと考えています。
私たちは今後このコラムで、農業を始めた人たちの話と、そこで何がうまくいったのか、また、何がうまくいかなかったのか、そしてその理由を示す数多くの実際的な例を紹介していくつもりです。私たちの農業への夢を実現させるために私たちみんなが取り組んでいるように。
いつでも気軽に私たちのホームページを訪れてください。www.phforganics.com.
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